三回忌
父の他界からもうすぐ二年が過ぎる。広島に帰省する用事があったので、それに合わせ、一月ほど前倒しで三回忌を行った。2011年9月25日朝、母、祖父母、姉夫婦、叔母、妻とぼくが集合した。お坊さんにお経を唱えてもらって、墓参りに行き、母のお気に入りの店で皆でお昼ご飯を食べた。たった数時間の、短いイベント。その間、何をするにもぼくの心の中に父の事が浮かんでいた。会話の中に父の事はそれほど現れなかったが、きっと皆、父の事を思い浮かべていたに違いない。
父の死は突然だった。2009年10月、ぼくは会社の昼休みに喫煙所でタバコを吸っていた。何気なく携帯を見ると、父の携帯から留守電が入っていた。ほとんどぼくに電話などしない父だったから、それだけで十分、非日常の出来事だった。留守電を再生すると、見知らぬ声で「緊急事態。折り返し電話ください」とだけ。嫌な予感。折り返し電話すると、父の仕事仲間の方が出た。父は仕事中、2階の屋根から落ち、意識不明の重態だという。病院に運ばれ緊急手術を受けたものの、結局、事故後に意識が回復することなく、その日の夕方に父は息を引き取った。仕事を全て放棄し広島の実家に着くと、仏間の布団に父の遺体が眠っていた。
ぼくが最後に生前の父と会ったのは、2009年の正月だったから、最後に言葉を交わして10ヶ月以上が経っていた。大学入学と同時に実家を離れて10年以上、帰省するのは年に2回くらい。父と会話するのは帰省したときだけ。そんな関係だったので、父がこの世からいなくなったことを実感するのに随分時間を要した。ちなみに、皮肉なことに、父が他界してからは、諸手続きを行うため、また、家族のことを心配する気持ちから、帰省回数は格段に増えた。
決して仲が悪いわけではなかったものの、長い間、父とのコミュニケーション不足が続いていたから、父が死の間際になにを考えていたのか、想像する由もない。事故当日、仕事仲間に「今日の昼はお好み焼き食べ行こうや」と言っていたらしい。そのお昼を迎える直前、父は屋根から落ちた。屋根から落ちるとき、回転する地面と空を眺めながら、何を思っただろうか。楽観的な父の事だから、まさかそのまま死ぬ事になるとは思わなかっただろうか。その日の仕事が終わった後の予定はあっただろうか。その週末は、1年後は、10年後の予定は何か考えていただろうか。
父の生きた意味は何だったのだろう。仕事一筋に頑張っている様子でもなかったし、家族旅行などもほとんどなかったから、家庭が第一という感じもなかった。ぼくと同じく、模型や図工は好きだったようで、ぼくが小さい頃、父は部屋にこもってラジコンヘリやラジコン飛行機をいじっていた。父の若い頃の写真をみるとぼくにそっくりでビックリするというか、気持ち悪いくらいだ。家族や親戚に、ぼくの顔、手や後ろ姿が父に似ていると良く言われる。背丈までほぼ同じで、父の喪服はぼくにぴったりフィットする(おかげで、法事に帰省する際、喪服を持参せずに済むので助かっている)。
ぼくは父がいなければこの世に存在しなかった。父はぼくを育ててくれた。ぼくが生きていることが父の生きた証だ、なんていうと大げさで傲慢な気がするが、自分の遺伝子を残すこと、という生物共通の目的に関して、父はまずまず成功したのではないだろうか。
父の身体は火葬場で灰になり、僅かに燃え残ったリン酸カルシウムが墓地に埋まっている。父の人生の意味なんてぼくには分からない。でも、これから先、父の事を考えたときに、何か新しく気付く事があれば、きっとぼくは父の事をより近くに感じるられるだろう。