不要不急でないこと
不要不急な外出は自粛せよ、という状況が2ヶ月近く続いている。こんな状況になると、生きていくために必要な活動は何だろうと考えてしまう。生きていくことは死なない事ではない。感激なき人生は空虚なり。削ぎ落された装備で山々を越える登山者なら、生きていくことの意味を知っているだろうか。
新型コロナウイルスによる感染拡大を遅らせるために全国の学校が臨時休校となったのが2020年3月2日。そのときは、あと2週間が勝負ということだった。企業で在宅勤務が増えたのもこのタイミングだ。3月後半にもなると欧州やアメリカで感染者数が膨大な数となり、2週間どころか1ヶ月以上経った4月7日に、日本でも緊急事態宣言が出された。
僕個人の生活においては、今まで心の拠り所だったクライミングや登山ができなくなってしまった、というか自粛だからしても良いんだろうけど限りなく行きにくくなったことの影響が非常に大きい。5月連休にそれなりの目標を設定していたものの、叶わぬ夢となってしまった。
1ヶ月かそこら耐えれば、また元のように県外に出かけてキャンプしたり登山したりクライミングしたりできますよ、というのであればまあ、頑張れると思う。しかしこの、新しいウイルスに振り回される状況は、いつ収束するのか見通しが立っていない。緊急事態宣言が出されたのが4月7日だから、現在(4月26日)はまだ3回目の週末を迎えたに過ぎないというのに、天気の良い土日に家にこもっていると、なんだか悲観的な気分になってくる。
果たして、緊急事態宣言のとりあえずの期日である5月6日の時点で、予定どおり自粛解除、これまでどり自由に遊んでいいですよ、となるだろうか。大抵の人々は、そうは思っていないだろうし、僕も思っていない。
新型コロナウィルスの治療体制が整わない限りは、あと半年、1年という単位で、不要不急な外出は控えるように、感染に十分注意するように、という状況は続くのではないか。終わりの見えない自粛要請を受入れて耐え忍ぶ生活を続けるのか、多少のリスクは覚悟で、でも自分自身の心と体の健康を優先して新型コロナウイルス以前の生活に無理やり戻るのか、そういう判断を個人個人あるいは家庭ごとに行うという岐路が、すぐそこに差し迫っている気がする。
ところで、2020年現在は、感染症の拡大を防止するために人々の活動が制限されているけれど、人類の活動がこのままのペースで進んでいけば、そのうちにエネルギー資源や食料の枯渇によって、消費行動自体に制限がかかることも考えられる。50年後か100年後、あるいは数世紀後に、先人達はいったい何を考えて無駄な浪費を繰り広げていたのだ、と怒りの矛先にされるのは僕たちの世代かもしれない。
2020-05-03追記:
緊急事態宣言が延長されそうだったり、山岳団体が自粛要請をしたりと、長いトンネルの出口はまだ見えない。接触機会を8割減らすことと、外出を自粛することはイコールではない気がする。そんな中、4月20日に更新された新型コロナウィルス濃厚接触者の定義は以下のように書かれている。
患者が発症する二日前から、一メートル程度の距離で、マスクをせずに十五分以上会話した場合などが該当します。従来は患者の「発病した日」以降で距離は「二メートル程度」でしたが、該当範囲を変更し、新たに「十五分以上」という時間の基準も設けました。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/202004/CK2020043002100014.html
逆に言えば、マスク着用、会話は5分以内、距離は1m程度より離れている、という状態であれば、濃厚接触者の定義から外れるので感染リスクとしては低いということになる。たとえ外出したとしても、スーパーで買い物したり、コンビニに寄ったり、登山したり、岩場でボルダリングしたりする場合、ほとんどは感染リスクの低い状態に保たれるのではないか。つまり、この範囲であれば、行動したとしても差し支えないとも思える。
ただし、感染する/しない、重篤化する/しないという問題の他に、全員が一致団結して自粛せねばならないとか、地元によそ者が来てくれるなとか、社会的な問題も大いに含まれているので、シンプルに解決とはいかないのかも知れないけれど。少なくとも自分は、他の人の行動を監視したり、咎めたり、という風にはならないようにしたい。