修行
2020年から2021年の自分の記録(このブログの記事)を部分的に読み返した。客観的に読むと、ごく普通の山行をどうということがない一般人が記録している、当たり障りのない記事だなと思えた。そのとおりだし、それでいい。ただ、山行が終わって記録を書いているまさにそのときには、それ以上の価値を見出だせていた気がしていたのだ。幻でも見ていたのだろう。
僕はもう20年以上も登山を趣味にしているけれど、山や岩に登ること自体の価値は未だによく分からない。自分の記録は印象に残ったことを文章にして残しているので、記録を読むことで何を価値としているのかが分かるかと思いきや、やっぱり良くは分からないままだ。そんなとき、2022年6月のfreefan(日本フリークライミング協会の会報誌)に掲載されていた笠置山寺ご住職のインタビュー記事が心に響いた。
目の前の岩にのぼりたいという気持ちは、子どもの頃から誰にだってあると思います。子どもにとっては「あそび」、行者にとっては「修行」、スポーツになると「ボルダリング」。笠置山の巨石を愛して楽しんでいただける。いずれも同じでしょう。
freefan #095 p. 19
出家しているわけでもないのに自主的に山へ分け入り、壁に取付くクライマーは、いわば野生の行者であろうか。山や岩は古くから信仰の対象とされていたようだ。信仰というのが何なのか僕はよく知らない。科学的根拠ではなくて、何かすごそうな立派な物を崇める気持ちで人々の意識を投影していたのかもと想像する。
人智を超えた大きな存在が山や岩を創り出したのであれば、その山や岩に登ることで、自分たちも大きな力にあやかれるのではないか、そういう素朴な考えでもあったかもしれない。理由はともかく、「修行」という表現はなんかいいなと思う。修行と言っておけば、少々無茶なことをしてても理解が得られる気がする。