言語化とは

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最近よく目にする「言語化してみた」「言語化する能力」という表現に、僭越ながら違和感を持っていました。何が違和感の原因なのかを考えていたら、なんとなく腑に落ちましたので、その過程を言語化(!)します。

言語化の違和感

「面倒な処理を自動化した」と言われれば、「自動」にしたんだなと思いますし、「アナログ信号をデジタル化した」と聞かされれば、「デジタル」にしたんだなと理解できます。

さて、「考えたことを言語化しました」と言った場合、「言語」にしたのでしょうが、その言語が示す意味が分からず、もやもやしていました。そもそも考えている過程で言語を使っているでしょうし、言いたいことを文章にしたと言うのなら「文章化」なのではと思っていたのです。

また、言語化と言うと、まるで言語を生み出しているかのような意味も感じてしまいます。日本語だとか英語だとか、あるいはプログラミング言語のC言語だとかRubyだとか、そういう、言葉の枠組み自体を生み出しているかのような印象があります。

そういった意味で違和感を持っていました。

違和感の正体

何かの本を読んでいて「言語化して喋る事が大切なのです」という記載を目にしました。これだ、と僕は思ったのです。なぜ「文章化」ではなく「言語化」と表現するのか。言語化イコール文章化ではない理由、それは、言葉にして喋ることもあるからです。

考えたことを言葉として置き換えて、文章なり、会話なりにして、自分の頭の中から他者が理解できる状態にすること、それが「言語化」なのだと解釈することで、自分なりに納得できました。

文章にするのであれば「文章化」とすれば済みますが、喋るために整理することの端的な表記はなさそうなので、それら両方を表す方法として「言語化」という言い回しは優れているな、と思った次第です。

違和感を感じた理由は、言語化イコール文章化であると勝手に解釈していた自分の先入観だったという訳です。

なお、心理学では、考えるときの言葉を「内言(ないげん)」、他者との情報伝達を目的とした言語を「外言(がいげん)」というそうです。そういう意味では、「言語化」の代わりに「外言化」というのもありかもしれません。